天下人・徳川家康のルーツをたずねる碧南探訪

称名寺・大浜稲荷社・浅間神社

2023年NHK大河ドラマの主人公として注目を集める徳川家康。

生誕地である岡崎市にスポットライトが当たっていますが、実は碧南市ともゆかりが深いということをご存じでしょうか。

碧南の町を歩きながら、天下人にまつわるスポットを巡ります。

最初に訪れたのは、家康のルーツを語る上で欠かすことのできない碧南市の東照山 称名寺しょうみょうじ

1339(慶応2)年創建の時宗の古刹です。

家康の祖である松平親氏は、時宗の遊行僧徳阿弥と称し、碧南大浜にある称名寺に滞在します。

父・有親が称名寺で没した後、親氏は松平郷(現・豊田市)に入り、松平家の勢力拡大のきっかけをつくりました。

これが後の徳川家につながる、松平家初代親氏の出現です。

つまり、家康につながる松平家(徳川家)の三河地方における歩みは、碧南の地から始まったともいえるのです。

境内を歩くと、松平親氏をはじめ松平家の霊を祀る徳川家祖廟や、三州大浜東照宮があり、徳川家康との縁深さを伝えています。

松平親氏を租として9代目にあたる家康ですが、幼名を竹千代といいます。

命名のきっかけは、毎月称名寺で連歌会を催していた家康の父・松平広忠が、

この連歌会の席で詠んだ「めぐりはひろき園のちよ竹」という脇句。

この句から、称名寺の時の住職であった十五世一天和尚が命名しました。

「竹千代」の名付け寺として伝えられる称名寺の境内には、この時の連歌碑が建立されています。

続いて大浜稲荷社へ。

武将となった家康39歳の時。

1582(天正10)年の本能寺の変を受け、伊賀越えをして命をつないだ家康は、碧南市の大浜を経由して岡崎へ逃れるルートを選択。

岡崎へ向かう道中に家康が立ち寄って身を隠したのが、家康の曽祖父である松平6代目・信忠が創建したとされる大浜稲荷社でした。

家康の伊賀越えルートについては諸説ありますが、大浜稲荷社は海から近く、

物見櫓があったことなどから、ここを経由地としたのではないかという説が伝えられています。

神社の境内には、家康一行が上がったとされる石段が今なお残されており、壮絶な戦国の世の鼓動を伝えているようです。

また、伊賀越えを果たして水路から三河に入った家康一行は、

碧南市北部にある浅間あさま神社近くに上陸したという説もあります。

松江の浜から浅間神社に辿り着いた徳川家康が空腹に耐えかね、

農民から差し出された「麦えまし」を食べたという伝承が残るこの地。

「麦えまし」とは、麦を煮て干した粗末な食べ物ではありますが、

貧しい農民たちが差し出した精いっぱいの食べ物が、打ちひしがれた家康らを救ったのです。

浅間神社には、家康にまつわるこの伝承から始まった「朝えまし」の風習が受け継がれています。

毎年夏の祭りの際には、「麦えまし」を神前に供えて厄災を祓う町の伝統行事として親しまれているのです。

家康と家来たちを救った農民たちの施し。

浅間神社を訪れ、そのやさしさに思いを馳せながら、心温まるひとときを過ごしてみてはいかがでしょう。

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