半田から全国へ挑戦したビールメーカー。甘くほろ苦い夢の味。

半田赤レンガ建物

国道247号に面する半田赤レンガ建物は、遠方からも観光客が足を運ぶ半田市のランドマークです。

レトロな佇まいが趣深い赤レンガ建物は、国道からも見える大きな看板が示す通り、

カブトビールの製造工場として、明治建築界三巨頭のひとり、妻木頼黄の設計によって1898年に建てられました。

半田赤レンガ建物で製造されていたカブトビールとは、1898年から1943年まで製造されていたビールのこと。

かつて半田市には、大手4社に挑戦したビールメーカーが存在したのです。

カブトビールの前身である「丸三ビール」の製造をしていた「丸三麦酒醸造所」が誕生したのは1887年のこと。

中埜酢店の4代目中埜又左衛門と後に敷島製パンの創業者となる盛田善平が手を組み、醸造業を開始。

1889年5月には「丸三ビール」という名のもと、瓶ビール約3000本が初出荷されました。

1898年には半田市榎下町に赤レンガのビール工場を建設。

ビール醸造技術や技術者は本場ドイツから導入されたもので、本格的なドイツビールを造るようになりました。

そして、このビールが「カブトビール」と名付けられます。

カブトビールという名称は、喉で勢いよく飲むことを「かぶる」ということから取られたという説や、

日清戦争の直後だったため、「勝って兜の緒を締めよ」から「カブトビール」と名付けられました。

 

カブトビールは順調に成長を遂げ、1900年に開催されたパリ万博では金牌を受賞。

エビス、アサヒ、キリン、サッポロビールとともに5大ビールメーカーと呼ばれるまでになりました。

その後カブトビールは、他ビールメーカーなどとの合併・併合を幾度か経て、

1943年に国家総動員法の影響で企業整備令が適用され、

工場の閉鎖、ビールの製造を終了することになりました。

 

ビール工場としての役目を終えた半田赤レンガ建物は、

1944年からすぐ近隣に合った中島飛行機半田製作所の衣糧倉庫として使用されることになります。

戦争の影響はそれだけではとどまらず、1945年7月15日には、米軍P-51戦闘機による機銃掃射を受けました。

建物北側の壁面には今もその傷跡が生々しく残っています。

この空襲では衣糧倉庫に火災も発生しており一部焼失する被害も出ています。

それから50年以上が経った1994年。

半田赤レンガ建物の保存に向けての活動が始まりました。

 

それ以来カブトビールの製造は途絶えていましたが、

半田赤レンガ建物の保存活動を行う市民団体である赤煉瓦倶楽部半田の企画により復刻。

現在は、当時の文献をもとに復刻した「明治カブトビール」と、

大正時代の分析表をもとに復刻した「大正カブトビール」の2種類のカブトビールが半田赤レンガ建物内のショップおよび、

カフェ&ビアホール「Re-BRICK」で購入することができます。

半田赤レンガ建物内には、お土産を販売するショップ、カブトビールの歴史を解説した展示室、

共有サロン、ビアホールなどがあります。

さらに見どころは建物自体も。

安定した温度と湿度管理が欠かせないビール工場ならではの構造が随所に見られ、

2重~5重の空気層で断熱性を高める「複壁」や、多重アーチ床(断熱耐火床)など、

工場内部を外気から遮断し、低温に保つ工夫が施されています。

また、レンガ造建築物として国内屈指の規模を誇るうえに、

日本のビール製造黎明期における数少ない工場の遺構でもある、歴史的価値の高い建物です。

かつて半田から全国に挑戦した、類まれなるチャレンジャーの足跡を確かめてみてください。

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