三州瓦を支える人たち vol.3(栄四郎瓦)

vol.3

「歴史を紡ぐいぶし瓦の製造元として、日本の原風景を守る」栄四郎瓦株式会社

創業は1801(享和元)年。栄四郎瓦株式会社は、現在も製造を続けている瓦メーカーとしては日本最古の製造元といわれています。「創業当時は、庄屋としていろいろな商いを手がけ、瓦製造以外にみりんの醸造などもしていたようです」と歴史を紐解いてくださったのは、社長の樅山朋久さん。

栄四郎瓦では、江戸時代に日本古来のいぶし瓦の製造を開始。昭和初期には塩焼き瓦(赤瓦)の製造に着手しました。昭和30年代に入ると、日本の高度経済成長による住宅の建築ラッシュを背景に、瓦の需要が一気に増加。この頃から、時代の流れに合わせ、従来の和瓦を釉薬ゆうやくで色付けした釉薬瓦(陶器J形瓦)の製造なども手がけるようになりました。

そんな中、大きな転機となったのが、昭和60年代から到来したバブル景気です。バブル経済の影響で美術館やゴルフ場など、大規模な建築物が次々と建てられる中、本物志向の設計者らの間では、釉薬瓦ではなく、伝統的な和瓦であるいぶし瓦の魅力が見直されるように。

樅山さんによると「そこで父は、いぶし瓦に比重を置いた大量生産体制の導入へと舵を切りました。経営的には苦しい場面もあったようなので、いぶし瓦を事業の核に据えたことが正しかったのかどうかはわかりません。しかし今なお、いぶし瓦の生産高日本一を誇る製造元として文化を守り続けられているのは、本物にこだわってきた先人たちの苦労があったからこそだと思います」。

昭和60年代には、いぶし瓦を中心に、平板瓦(陶器F形瓦)、S形瓦なども製造。また、平成に入ってからは、デザイン性の高いオリジナル瓦「カパラス」もラインナップに加わりました。

「いぶし瓦の歴史は、安土桃山時代にまでさかのぼります。織田信長の依頼により、安土城築城のために製造されたのが最初ではないかと言われています」と樅山さん。

三州のいぶし瓦は、成形・乾燥した瓦を1,130℃程度で焼き締めた後、窒素などで希釈したブタン、プロパンなどのガスを入れた窯の中で作られます。空気を遮断し、高温で密閉された状態にすることでガスが燃焼しないため、瓦の表面に炭素皮膜が形成され、いぶし瓦特有の美しい銀色の光沢が生まれるのです。

他のセラミック製品では行わない、この特殊な焼成工程の難しさと、気品のある発色こそが、数ある粘土瓦の中でも、いぶし瓦が最高級品とされる所以なのです。

栄四郎瓦では、いぶし瓦に象徴される比類なき和瓦の技術を駆使し、一般住宅はもちろん、日本各地の寺社仏閣や文化的価値の高い建築物に、数多くの瓦を納めています。

樅山さんは「繊細でありながら重厚感があるいぶし瓦の趣は、日本の伝統的な建築物には欠かすことができない存在です。いぶし瓦が輝く日本ならではの町並み、原風景を守り、後世へと残すために、いぶし瓦をはじめ、和瓦の製造にこだわっていきたい」と思いを語ります。

伝統的ないぶし瓦の製造を続ける一方で、現代にマッチした多彩な瓦も製造する栄四郎瓦。「近年の住宅では、圧倒的に洋瓦が主流。当社の生産量においても、洋瓦の代表格である平板瓦が約7割を占めます」。デザイン面での軽やかさはもちろん、和瓦に比べて比較的施工が容易であるという施工性の利点も、平板瓦の人気を後押ししているそうです。

モノづくりが盛んであるという地域性もあり、長い歴史の中で、釉薬瓦、平板瓦などの技術・設備をいち早く取り入れ、瓦の一大産地として名を馳せてきた三州。

「三州では、例えば粘土を掘る、粘土を混ぜる、粘土を練って板状にする、釉薬を混ぜる、機械をメンテナンスするなど、工程ごとに各社で分業して瓦産業を支えてきました。しかし近年は、瓦以外の屋根材の台頭により、瓦産業に従事する企業が減少しています。粘土瓦を作り続けていくためには、各工程を内製化できる体制を整えることが急務。廃業した会社の機器や設備を譲り受け、瓦の生産を絶やさないために奔走しています」と樅山さん。

今後は、国内のみならず、海外のテーマパークや商業施設など、日本文化にまつわる建物に和瓦を使ってもらえるように働きかけたいと、新たな可能性も模索中。

また、瓦文化を未来に残すためにあらゆる視点から尽力する樅山さん。「瓦を焼成する工程の環境負荷などについても、しっかり検証する必要があります。持続可能な建材として、未来にわたって長く愛され、作り続けられるための地盤づくりも大切ですね」。

すべては、日本古来の建築美、そして陽光を受けて屋根瓦が輝く美しい町並みを守るため。その思いを胸に瓦を作り続け、日本が誇るべき文化を伝承しています。

 

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